昭和44年10月03日 夜の御理解



 そういうまぁいうなら大変な問題に、お互い信心さして頂いてぶっつかった時に、はっきり自分の頂いておる信心が解るものです。例えば100位の時には、びくともしなかったけれども、それが500になり、1000になったら、もうそれこそ心が真っ暗になってしまっておる訳ですね。不安で不安で堪らないのですね、で私はあのそこでお互いのそういう何かに直面した時に、自分の信心の程度というものが分かる訳ですから、そこからの又信心が一つ本気でなされなきゃいけんと云う事ですね。
 その私し申しましたんですけどね、御心眼に頂いとりますと、あのランプの光が、もう明々と燃えてるんですけれども、上の火屋がね、その真っ黒、すすで煤けとる所を頂くんです。ですから結局そういう時にはね、理屈の上では分かっておるのですから、また神様の働きは、明々と燃えさがっておるのですから、ここんところをですね、矢張りその火屋を磨くという、火屋をふくと云う事ですね。 
 ランプ火屋というのは、毎日ある程度しなきゃなりません、毎日研かなきゃなりませんが、その磨く事によって明々と、その明々となる所から、今にも不安がなくなって行くと。そこにおかげを頂かれる道がそこから開けて来るですね。ですから、そういう心が不安に思う時、又はその心が心配でたまらん時、結局分かってはおるけれども、本当の神様が頂いていない、頂けていない自分という事を先ず分かって。そこから一段と信心の稽古をさせて頂くというか。
 又は取分け普通じゃ出来ない本気での自分での改まりというか、磨くと云う事に焦点を置く所からです、不思議に次に与えられるのがもう儘よという度胸です安心です。そこから又新たな今までと違った信心の段階というものが、高められて行くと云う事なんですね。だから何かがあるたんびに自分の信心を確かめ、しかもそこから一段と高められて行く、信心をさして貰わなきゃいけんと思うですね。
   どうぞ。